壺の中見て

SFで読み解く、映画『ラブライブ!The School Idol Movie』

ネットでもリアルでも迫害対象となっているラブライバーという輩が崇め敬う経典、『ラブライブ!』。

ここで"!"を入れ忘れ『ラブライブ』と記していた場合、それが広まるや否や、たちまち数の暴力によりこのエントリー自体が消え去ってしまうだろう。

それほどまでに訓練され、統制された人間たちが自らの人生の大半を捧げ続けるこの素晴らしいアニメ作品の劇場版が、昨年遂に公開された。

 

 

ラブライブ!The School Idol Movie』といった、理解し易い安直なタイトルだと思わせているつもりなのだろうが、よく見ると元々全て英語であるべきものをカタカナと英単語を混同させている。

 

ただ単に『ラブライブ!ザスクールアイドルムービー』だと格好が付かないだけだったのかもしれないが、僕が知るかぎり、ラブライバーの皆さんは一言もそんな事を疑問視している節は無かった。さすが何年も訓練され続けているだけはある。

 

なんにせよ観たいと思ってはいたのだけれど、公開してからしばらく忙しく、気付いた頃には既に劇場公開自体が終わってしまっていた。

公開当時を思い出してみるも、最近社会現象にもなった劇場版ガールズ&パンツァーの様な「ガルパンはいいぞw」等という語彙力が無い人間の共通言語みたいなものが産まれることも無く、Twitterでもちらほらと感想を見るくらいで、思ったほど盛り上がっていないな…といった印象であった。

もちろん僕の知らない所ではきっと、ファンは狂喜乱舞し、世紀の大波の如く、ラブライブ!が全世界を席巻するほどの一大ムーヴメントだったのだろう。

結局劇場で観ることは叶わず時は過ぎ、つい先日レンタルビデオ屋に置かれていることを知り、念願叶って遂に鑑賞する運びとなったのである。

 

*ここからネタバレになるかも

 

圧巻である。純然たるSF作品だった。

それも過去の偉大なるSF作品たちの系譜をしっかりと踏襲し、新時代のSFというものを見事提唱しているのだ。

2014年、インターステラーという映画が公開されたのだが、僕はラブライブ!を鑑賞後「これはインターステラーへのアンサームービーだ。」と瞬時に結論付けた。

あらすじなどは各自勝手に調べて欲しい。とにかく、あるきっかけにより世界線を超越し、恐らく未来の自分(過去の自分)であろう存在との邂逅、次元超越におけるプレーンワールドの可視化など、どれを取ってもラブライブインターステラーは同一のテーマを扱っている。インターステラーの最終幕に「主人公たちを助けようとしている者は、遥か未来の人類(自分たち)だった」、といった旨の展開がある。詳しくは伏せるがラブライブ!にもそのように捉えれる描写が存在した。

 

そしてラブライブ!には秋葉原の街中でぱっと見五億人くらいのアイドルが一斉に歌い踊る狂うといった狂気のライブシーンがあるのだが、よく見ると街中に通行人が一人もいない。異常事態だ。いくら何億人のアイドルが集まっているとはいえ、メインのμ′s達に街一つ貸し切れる権力などないはずだ。音楽やダンス、インサートでのモニター前の観客のような存在で巧みにカモフラージュしているのだが、現場には一切ファンが存在しない。ファンだけではない、在るべき通行人やこれだけの規模のイベントを管理する人間一人ですら見当たらないのだ。 

そう、まるで世界が停止しているかのようであった。

 

街そのものに息遣いがなく、「停止した世界」は同様にインターステラーでは「滅び行く死の街」として描かれている。つまりラブライブ!の世界も、終焉へと向かっているのだ。それは現実(三次元)でのμ’s解散というニュースに合致する。

多岐に渡るメディアミックスの末、その終わりをよもや劇場版の、最大の盛り上がりのシーンに描き出すとは恐れいった。

 

ちなみに「SF 秋葉原 無人」というワードからある作品が検出される。言わずと知れた近代SFアニメの金字塔、『STEINS;GATE(シュタインズゲート)』である。

この作品に登場する「静止した秋葉原」はあまりにも象徴的且つ、印象的だ。シュタインズゲートで描かれた様に退廃的な世界は如実にラブライブ!にも組み込まれていたように見受けられる。

 

ただ前提としてラブライブ!は元来SF作品ではないと、僕は思っていた。それが本当にそうなのか定かではないけれど、単純なアイドル・サクセス・ストーリーだと銘打っていたはずだ。何故、満を持した劇場版でSF要素を詰めこんだのだろう。もしかしたら、そもそも『ラブライブ!』は地球上の話ではないのかもしれない。人類だと思っていた彼女達は何か別の知的生命体なのだろうか。

ここまで書いてふと思い出したのだけれど、この作品には一人たりとも男のファンが登場しない。少なくとも父という存在は認識出来てはいるものの、作中に登場する男性は余りにも少ない。これはつまり、近い将来地球上から男性がいなくなってしまうという事を予見しているのかもしれない。事実、最新の研究結果で地球上からY染色体が消えてしまうといったニュースも話題となった。これを考えたとき僕は新井素子著『チグリスとユーフラテス』を思い出した。

チグリスとユーフラテス

チグリスとユーフラテス

 

あらすじは自分で調べろ!とにかくこの小説には生殖機能を失っていく人類たちが登場する。ラブライブ!に描かれる「ゆるやかな死」はこの作品へのオマージュであると受け取っていい。

 

まだまだ色々と考察すべき点はあるのだろうけれど、考えが追いつかないのもあり、僕自身SFに対しての造詣もそこまで深くはないのでここまでにしておこう。SFフリークの方々の見解も聞いてみたいものだ。

ラブライバーはこの映画の深淵に何を観たのだろうか。望むか望まぬか、もはや宇宙理論の知識が無くては語りきれない作品へと昇華された『ラブライブ!』、「ラブライブはいいぞw」などといった上辺だけの感想では、ラブライバーの望む「二次元に行きたい」などという次元上昇(下降)はきっと夢想に終わるであろう。

 

ラブライバーは今、試されている。あなたがラブライブ!を覗いている時、ラブライブ!もまた、こちらを覗いているのだ。