壺の中見て

爆球連発!!スーパービーダマンにおけるカルト宗教的思想

 
かつてコロコロコミックにて連載され、ミニ四駆ハイパーヨーヨーに次ぐ三種の神器ならぬ三種の玩具として時代を築き上げた「スーパービーダマン」を題材にした作品である。
 
全15巻を読んだ今だからこそ読み解けた、この作品の描いている根幹が見えたので少し綴ってみよう。
この作品において、ビーダー(ビーダマンで遊ぶガキ)のスキルアップというのは全てビーダマンの改造という一点に集約されている。
これは少年漫画にあるまじき設定であると僕は思う。少年漫画の根幹である「友情・努力・勝利」の「努力」の部分が余りにも欠落しているのだ。これは由々しき事態であると共に少年漫画の在り方そのものへの挑戦とも受け取っていい。
百歩譲って「ビーダマンの改造」という行為を努力と置き換えることは許そう、よくある武器の改造に置けるパーツ集めや、武器そのものとの対話(ブリーチの卍解など)など、少年漫画では苦悩の末のパワーアップというのは定番の展開なのだから。
だがビーダマンに関してはその描写は一切存在しない。正しくは描かれてはいるのだが、それは全てサブキャラに対してのみであり何故かこの作品は主人公にあるべきその物語が存在しないのだ。何の苦悩もなく、自ら改造を行う訳でもなくビーダマン研究者や仲間達の助けによるビーダマンの強化によって世界を救う。
 
物語の終盤、仲間のガンマが主人公であるタマゴの事を「努力してきた天才」と揶揄するシーンがあるのだが、そもそも長きに渡る闘いの中でタマゴが努力してきた描写は一度たりとも描かれていない。
一巻当初、空き地でモブ共と遊んでいた時代から、そのポテンシャルは抜きん出ていたようで常日頃モブ共相手に勝利の美酒に酔いしれていた。そこに現れたガンマとの出会いによって世界の命運を賭けたバトルへとあれよあれよと参加していくのだ。
そんな戦闘狂(バトルマニア)のタマゴの友情、礼儀を重んじる思想に共感・感銘し仲間が増えていく中、タマゴは何も変わらない。自らの思想に対する疑問など1ミリもないのである。
「バトルがしたい」、というビーダマンのバトルに魅せられ狂ったかのように闘う中で発生したアクシデントに対して、タマゴは一貫した姿勢で向かい合う。
 
凄すぎる。ここまで悩みなどない少年が存在するのだろうか。
そう考えたとき、確かに、少なくとも僕自身がタマゴと同年代の時悩みなど存在しなかった。
宿題をしないといけない、親に怒られるかもしれない、といった今思えばどうでもいい悩みはあったのだろうが、もし仮に自分がタマゴと同じ状況になった場合、世界の危機と比べて宿題に対する不安などゴミのようなものだ。
そんなものに対して精神を削る必要もない、なぜならば世界を救えるのは自分しかいないのだから宿題などしている場合ではない。
だから下手な努力などしなくてよい、友情と礼儀さえしっかりと、一貫した姿勢で構えておけば周囲の人間が助けてくれるのだ。その心構えを貫くことを努力と捉える人間もいるであろう、だがタマゴは違う。無意識にそのような人間性が形成されているのだから。だからこそ出席日数などなんのその、後半は学校など行かずにビーダマンに没頭する生活を送っている。
まさに土方をしている叔父の教育の賜物だ。叔父のお陰で世界は救われたといっても過言ではないだろう。
つまりこの作品は親へのメッセージであると共に、少年たちに対して「下手な努力をする前に子どもは子どもなりに周りに頼れ、筋を通せばきっと物事は上手くいく。」といった、物事全てに感謝すべきというある種カルト宗教的思想に通ずる物語だったのである。
 
 
-追記-
だから何だという感じではあるが、決してこの作品をけなしている訳ではない。
捻くれずに読めば、どストレートな熱い展開に童心が蘇り、心踊るであろう。
kindle版は何故このタイミングなのかは謎だが異常に安い金額設定になっているので是非。全巻併せて300円もしません。