壺の中見て

日常系に終止符を

『日常系』という、得も知れぬボンヤリとしたジャンルが生まれて幾許かの年月が過ぎた。今やそれを取り巻く霧は濃く張り詰め、実態が掴めないほど巨大なものへと成長してしまった。そもそも、このような意味が分からないものを神輿の如く担ぎ上げ、オタクは今現在どう思っているのだろうか。調べたくもないが、少し検索をかけてみるとそもそも、この手のジャンルは『空気系』と呼ばれており、『日常系』とはその派生用語であることが分かった。

空気系 - Wikipedia

正直、呼称はどちらでもいいがこんな長ったらしいページを読むのも面倒なのもあり、やはりその実態は掴めないままだ。面倒ついでにここからの文章も空気系と書くより日常系と書いたほうが個人的に分かりやすいので、空気系という言葉は無視することにする。

引き続き魑魅魍魎の巣窟、ニコニコ大百科で恐る恐る検索をかけてみる。

とにかく徹底して物語性の排除が進められたために、他のジャンルべて重厚なストーリーや壮大なバトルシーン手なギャグパート鬱展開く、さらにはオチすらもつけずに次の場面へ進む場合も有る。このため、しばしば「中身がい」と揶揄されたりもするが、それ故に疲れたときに肩のを抜いてリラックスしながら見るには最適であるとも言える。いわゆる癒し系

上記のように記述されていたが、やはり納得がいかない。

そもそも日常系によく見受けられる、可愛いくてまるで聖人君子な程に性格がいい、個性もバラバラな女の子が多数いるコミュティなど、購買層であるオタクが過ごすリアルワールドに一切存在しないではないか。日常系の説明に於いて、その事実に対しては一切言及されていない。もちろん漫画はフィクションであるという大前提があるのは重々承知だが、解せない。

どこが日常だ、完璧な可愛い女など描かなくていい。ブスを見せろと、僕は常々思っている。断っておくが、ここで言うブスとは性格が悪い人間、ということを分かって欲しい。逆に、ビジュアル的にブスな女がいる、女性のコミュニティ特有の意識的カーストが垣間見える日常系作品というのも魅力的ではあるが。

ただ、世間一般的に流布されている日常系作品にはリアルには有り得ないキャラクターがありきたりではない日常を過ごしている。『日常』という言語を駆け巡る、一種のメタファーをも感じるこの違和感。日常系フリークはこんな物を糧に、日々血肉へと消化しているのか。恐れ入る。

アニメに限らず、たびたび映画などでも性格が悪い人間というのは極力『悪』として描かれるが、必ずや彼らには多少なりの『悪に堕ちたエピソード』とやらが付随する。日常系というものは、そういう話ではない。日常系という、もはや日常にあり得ないものを描くジャンルにおいて、外面は良いが、その実、人の内面の綻びが描かれるような作品と、僕は未だに出逢えていない。

日常系にそのようなエッセンスを求めるのは、やぶさかかもしれない。前述で引用したようにただただヌルい物語を続けること自体が魅力と公言しているのだから。

ところで、昨年アニメ化し話題となった『がっこうぐらし!』という漫画がある。この作品、実にセンセーショナルな手法で僕の心を鷲づかみにした。

 

がっこうぐらし!  (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

がっこうぐらし! (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

 

 

 一巻の終わりにて、「生温い日常そのものは幻想である。」という明確なメッセージを突き付けたのだ。素晴らしい。二巻以降の展開もある程度魅力的なゾンビサバイバルストーリーではあるのだが、それは今どうでもいい。ただ日常系を語るに於いての一点のみ、全てこの一巻に集約されていると断言できる。下手すれば訴訟物だ、だがこの一巻で晴れた霧の中に僕らは完全に魅了され、その現実と向き合う事となる。

そして同時に、この作品は全ての日常系作品及び我々に挑戦状を叩きつけた。

「その日常は現実なのか?」という答え無き問いである。手放しで『がっこうぐらし!』を褒め称える人間は一度我に返った方がいい。あなた自身も問われているのだ。今この現実が、本当に現実であるかどうか、自分は本当に自分なのか、現代人に警鐘を鳴らしていることを深く受け止めたほうがいい。

それを踏まえて考えれるのは、『がっこうぐらし!』一巻のアプローチは、きっとこの楳図かずお作『洗礼』へのラブコールそのものである、という事だ。

洗礼 (1) (小学館文庫)

洗礼 (1) (小学館文庫)

 

この作品、『がっこうぐらし!』一巻以上の哲学的メッセージを突き放っている。内容は伏せるが、必ずや心に響く作品であると自信を持ってオススメする。日常、官能、猟奇という色が深く交じり合い、どす黒く濁っていくさまは必見だ。『がっこうぐらし!』と『洗礼』の親和性に気付いた時、あなたの『日常』への意識は今と比べて全くの別物へと変貌を遂げるだろう。

 話を戻すが、日常系に嵌まる人間というのは、人間の本質を見落としている。これを言語化するには難しい話なのだが、それを如実に描いている作品はご存知、カイジシリーズや闇金ウシジマくんくらいなものだ。

賭博黙示録 カイジ 1

賭博黙示録 カイジ 1

 

 主人公であるカイジは基本的に人間の尊厳を重んじる生温い考えであるが、作中に現れる悪党どもは僕から見るとカイジ以上に、"人間的"な人間ばかりである。福本伸行は人間の本質を見抜いている。カイジが売れる理由はここだ、人間誰しも純粋悪に憧れる。バックボーンなど必要ない、生まれ持っての悪、性悪説を支持・期待する人間の多さはこの作品の売上という数字となって証明されている。

闇金ウシジマくん(1) (ビッグコミックス)

闇金ウシジマくん(1) (ビッグコミックス)

 

 闇金ウシジマくんに至っては極振りだ。全ての登場人物がまさに"人間的"に描かれている。宣伝文句に救いが無い話が多いという注釈があるにも関わらず、人々が群がる。何故この作品が売れるのかというと、人間誰しも心の奥底に自分より下層の人間を安全な立ち位置から眺めたいという願望が少なからず有るのだ。日常系を嗜む人間は自ずとその欲求を押さえ込んでいる。ある種いつ爆発するか分からない危険思想を持ち続けている爆弾のような存在といっても過言ではない。危険因子だ。僕がヒトラーだったならばユダヤ人などではなく、まずは日常系を愛する人間こそブタ箱にブチ込むだろう。

 

人は、日常系というジャンルに何を望むのか。中国思想における、桃源郷は心の奥底に存在したと言われる。桃源郷への再訪は不可能であり、また、庶民や役所の世俗的な目的にせよ、賢者の高尚な目的にせよ、目的を持って追求したのでは到達できない場所とされる(日常生活を重視する観点故、理想郷に行けるという迷信を否定している。)。安息の地は己自身の中に在る。そして同時に介在する、自己の邪なる思想をも受け入れるべきだ。さすれば、日常系というものの霧は晴れ、必ずや収束していく。

 

僕は今ガストの喫煙席でこの記事を書いている。隣の席では頭が緩そうな女子大生らしき2人の片割れが、ミッキーマウス・マーチを合間合間に口ずさみながら彼氏との性事情の自慢話をしている。これこそがリアルだ、僕の桃源郷だ。今ここに提言しよう、いずれこのような真の日常を描く作品は必ずや現れる。それを描けるのは、もしかしたらあなた自身かもしれない。