壺の中見て

街に飲み込まれる

愛用しているMacのトラックパッドが壊れた。

壊れた、という表現も若干違うのだがトラックパッド全体が若干沈んでしまい物理的なクリックが出来なくなってしまった。

ちなみに僕は先週から東京で働いている。東京は凄い。大阪・広島の時とは別次元のレベルで近場にApple Storeが存在しているのですぐさまGenius barに持っていくことにした。

地下鉄に乗り、渋谷で降りるや否や「東京には慣れてますよ」感を程々に匂わせる完璧な歩行速度で雑踏に紛れ込む。程なくして渋谷のAppleStoreに到着する。事前に予約していたので当たり前のように混雑はしていたが待ち時間もなく担当の人が話しかけてきた。

担当してくれたのはかなりガタイが良く、威勢のいい素敵な笑顔のアニキ的風貌の店員であった。取り急ぎMacを見せ状態の説明すると、恐らくクリック部のネジを調節すれば直るとのこと。素早い手捌きで丁寧にMacを緩衝剤で包み、裏へと消えていく。

隣で中国人スタッフと中国人客がカタコトの日本語でApple Watchの修理の話をしているのを見つめながら待機。しばらくして中国人たちがヒートアップし、お互い中国語になり始めた頃、アニキが戻ってくる。

アニキは申し訳なさそうに「ネジが堅すぎて回せないです…」と一言。渋谷の五郎丸と異名を持つ彼のパワーでも回せないとは。その筋肉を持ってして不可能ということは、死の宣告と同義である。

気付くと僕は茫然自失の中、渋谷の街をふらふらと歩いていた。すれ違うオラったヤンキーが茨城弁で携帯に怒鳴っている。

そういえば茨城の祖母の家にも遊びに行きやすくなったのだ。


この街独特の息遣いを間近に感じながら、ここでしばらく頑張ってみようと思った。

日常系に終止符を

『日常系』という、得も知れぬボンヤリとしたジャンルが生まれて幾許かの年月が過ぎた。今やそれを取り巻く霧は濃く張り詰め、実態が掴めないほど巨大なものへと成長してしまった。そもそも、このような意味が分からないものを神輿の如く担ぎ上げ、オタクは今現在どう思っているのだろうか。調べたくもないが、少し検索をかけてみるとそもそも、この手のジャンルは『空気系』と呼ばれており、『日常系』とはその派生用語であることが分かった。

空気系 - Wikipedia

正直、呼称はどちらでもいいがこんな長ったらしいページを読むのも面倒なのもあり、やはりその実態は掴めないままだ。面倒ついでにここからの文章も空気系と書くより日常系と書いたほうが個人的に分かりやすいので、空気系という言葉は無視することにする。

引き続き魑魅魍魎の巣窟、ニコニコ大百科で恐る恐る検索をかけてみる。

とにかく徹底して物語性の排除が進められたために、他のジャンルべて重厚なストーリーや壮大なバトルシーン手なギャグパート鬱展開く、さらにはオチすらもつけずに次の場面へ進む場合も有る。このため、しばしば「中身がい」と揶揄されたりもするが、それ故に疲れたときに肩のを抜いてリラックスしながら見るには最適であるとも言える。いわゆる癒し系

上記のように記述されていたが、やはり納得がいかない。

そもそも日常系によく見受けられる、可愛いくてまるで聖人君子な程に性格がいい、個性もバラバラな女の子が多数いるコミュティなど、購買層であるオタクが過ごすリアルワールドに一切存在しないではないか。日常系の説明に於いて、その事実に対しては一切言及されていない。もちろん漫画はフィクションであるという大前提があるのは重々承知だが、解せない。

どこが日常だ、完璧な可愛い女など描かなくていい。ブスを見せろと、僕は常々思っている。断っておくが、ここで言うブスとは性格が悪い人間、ということを分かって欲しい。逆に、ビジュアル的にブスな女がいる、女性のコミュニティ特有の意識的カーストが垣間見える日常系作品というのも魅力的ではあるが。

ただ、世間一般的に流布されている日常系作品にはリアルには有り得ないキャラクターがありきたりではない日常を過ごしている。『日常』という言語を駆け巡る、一種のメタファーをも感じるこの違和感。日常系フリークはこんな物を糧に、日々血肉へと消化しているのか。恐れ入る。

アニメに限らず、たびたび映画などでも性格が悪い人間というのは極力『悪』として描かれるが、必ずや彼らには多少なりの『悪に堕ちたエピソード』とやらが付随する。日常系というものは、そういう話ではない。日常系という、もはや日常にあり得ないものを描くジャンルにおいて、外面は良いが、その実、人の内面の綻びが描かれるような作品と、僕は未だに出逢えていない。

日常系にそのようなエッセンスを求めるのは、やぶさかかもしれない。前述で引用したようにただただヌルい物語を続けること自体が魅力と公言しているのだから。

ところで、昨年アニメ化し話題となった『がっこうぐらし!』という漫画がある。この作品、実にセンセーショナルな手法で僕の心を鷲づかみにした。

 

がっこうぐらし!  (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

がっこうぐらし! (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

 

 

 一巻の終わりにて、「生温い日常そのものは幻想である。」という明確なメッセージを突き付けたのだ。素晴らしい。二巻以降の展開もある程度魅力的なゾンビサバイバルストーリーではあるのだが、それは今どうでもいい。ただ日常系を語るに於いての一点のみ、全てこの一巻に集約されていると断言できる。下手すれば訴訟物だ、だがこの一巻で晴れた霧の中に僕らは完全に魅了され、その現実と向き合う事となる。

そして同時に、この作品は全ての日常系作品及び我々に挑戦状を叩きつけた。

「その日常は現実なのか?」という答え無き問いである。手放しで『がっこうぐらし!』を褒め称える人間は一度我に返った方がいい。あなた自身も問われているのだ。今この現実が、本当に現実であるかどうか、自分は本当に自分なのか、現代人に警鐘を鳴らしていることを深く受け止めたほうがいい。

それを踏まえて考えれるのは、『がっこうぐらし!』一巻のアプローチは、きっとこの楳図かずお作『洗礼』へのラブコールそのものである、という事だ。

洗礼 (1) (小学館文庫)

洗礼 (1) (小学館文庫)

 

この作品、『がっこうぐらし!』一巻以上の哲学的メッセージを突き放っている。内容は伏せるが、必ずや心に響く作品であると自信を持ってオススメする。日常、官能、猟奇という色が深く交じり合い、どす黒く濁っていくさまは必見だ。『がっこうぐらし!』と『洗礼』の親和性に気付いた時、あなたの『日常』への意識は今と比べて全くの別物へと変貌を遂げるだろう。

 話を戻すが、日常系に嵌まる人間というのは、人間の本質を見落としている。これを言語化するには難しい話なのだが、それを如実に描いている作品はご存知、カイジシリーズや闇金ウシジマくんくらいなものだ。

賭博黙示録 カイジ 1

賭博黙示録 カイジ 1

 

 主人公であるカイジは基本的に人間の尊厳を重んじる生温い考えであるが、作中に現れる悪党どもは僕から見るとカイジ以上に、"人間的"な人間ばかりである。福本伸行は人間の本質を見抜いている。カイジが売れる理由はここだ、人間誰しも純粋悪に憧れる。バックボーンなど必要ない、生まれ持っての悪、性悪説を支持・期待する人間の多さはこの作品の売上という数字となって証明されている。

闇金ウシジマくん(1) (ビッグコミックス)

闇金ウシジマくん(1) (ビッグコミックス)

 

 闇金ウシジマくんに至っては極振りだ。全ての登場人物がまさに"人間的"に描かれている。宣伝文句に救いが無い話が多いという注釈があるにも関わらず、人々が群がる。何故この作品が売れるのかというと、人間誰しも心の奥底に自分より下層の人間を安全な立ち位置から眺めたいという願望が少なからず有るのだ。日常系を嗜む人間は自ずとその欲求を押さえ込んでいる。ある種いつ爆発するか分からない危険思想を持ち続けている爆弾のような存在といっても過言ではない。危険因子だ。僕がヒトラーだったならばユダヤ人などではなく、まずは日常系を愛する人間こそブタ箱にブチ込むだろう。

 

人は、日常系というジャンルに何を望むのか。中国思想における、桃源郷は心の奥底に存在したと言われる。桃源郷への再訪は不可能であり、また、庶民や役所の世俗的な目的にせよ、賢者の高尚な目的にせよ、目的を持って追求したのでは到達できない場所とされる(日常生活を重視する観点故、理想郷に行けるという迷信を否定している。)。安息の地は己自身の中に在る。そして同時に介在する、自己の邪なる思想をも受け入れるべきだ。さすれば、日常系というものの霧は晴れ、必ずや収束していく。

 

僕は今ガストの喫煙席でこの記事を書いている。隣の席では頭が緩そうな女子大生らしき2人の片割れが、ミッキーマウス・マーチを合間合間に口ずさみながら彼氏との性事情の自慢話をしている。これこそがリアルだ、僕の桃源郷だ。今ここに提言しよう、いずれこのような真の日常を描く作品は必ずや現れる。それを描けるのは、もしかしたらあなた自身かもしれない。

毒にも薬にもならない世にも奇妙なスタジオジブリ

会話のネタのよくある一つに「ジブリで何が一番好き?」という質問が存在する。

話の裾野を広げるにはいい質問だとは思うが、今まで出会って来た人の中でこの質問をしてくる人間ほど、実は全てのジブリ作品を観ていなかったりする。
大方、会話の流れで面白かった映画の話など、ある程度の文脈ありきでこの質問に辿り着くのだが、その頃には質問者の好みや映画や作品への造詣の深さが垣間見えている状態なので、相手次第では所謂「ジブリ作品ではあるものの世間一般的に観てジブリ作品という認知度が低い作品」は解答から除外されてしまう。
云えにこの質問は「ジブリで何が一番好き?」ではなく、「宮崎駿が監督した有名な作品の中で何が一番好き?」と解釈したほうが安牌であり、身のためである。
もし仮に、「キリクと魔女」とでも答えようものならばその瞬間、因果律の崩壊により世界は終末を迎える。「ルパン三世 カリオストロの城」とでも答える輩もいるだろうが、そもそもこの質問に対する解答の一作目にルパンを出す様な人間は質問の意味を理解していないバカかそれとも"解ってる"類の厄介な人種のどちらかなので、あなたが質問者の立場ならそんな輩とは早々に縁を切ることをオススメする。
 
ただ、世界の崩壊は防がねばならぬ。しかしこの泥沼のような終わりなき不毛な会話を続けるには相当の精神力を要するのだ。人間誰しもそこまで屈強な精神を持っているわけではない。あてもなく、方向も分からないのに永遠と砂漠を歩き続ける事が出来るだろうか。僕には無理だ。
という訳で”メジャー”であり”宮﨑駿監督”の”スタジオジブリ制作劇場アニメーション作品”の中でも特に毒にも薬にもならない凡庸な作品を3点紹介する。会話の流れから早急に別の話題に転換するには持ってこいの作品たちだ。このエントリーをコンパスに、終わりなき旅路からの脱出を切に願う。
 
 
ハウルの動く城 [DVD]

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不思議な映画だ、何も語ることがない。ここまでメジャーな作品でありながらも、序破急の展開を一切記憶することが不可能な映画である。何度観たかも覚えてないが、一ミリも細かな内容が思い出せない。印象的な音楽もない。城が動くから何だというのだ。おそらく質問者もそうだろう、語るべきは木村拓哉の演技力(声)、それだけになることは間違いない。その流れから木村拓哉主演・世にも奇妙な物語の「Black Room」という作品をさらっと、嫌味なく紹介してみよう。

 

世にも奇妙な物語「Black Room」

15年前の作品だが、今でも新鮮に感じれるシュール且つスタイリッシュな展開にジブリなど脳内から一蹴される。質問者がもしも異性なら、博識でユーモラスなあなたに魅了され、たちまち二人は夜のBlack Roomへとしけ込む事になるだろう。

あとはタイミングを見計らって、我修院達也扮する火のバケモノのモノマネでもしておけば会話は終了だ。

 

 

風立ちぬ

風立ちぬ [DVD]

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実在した航空技術者・堀越二郎をモデルに、その半生を描いた作品である。

血迷ったか宮﨑駿、当時のメイン購買層である女子供はそんなものをジブリに求めていなかっただろう。僕はこの作品を劇場で観たのだが、男の子を連れた母たちが鑑賞後、戸惑いの色を隠せず足早に劇場を去っていったのが脳裏に焼き付いている。手を引かれ去っていく少年達も、アクションムービー鑑賞後によく見るガキ特有の興奮などなく、何が起きたのか理解出来ずその瞳には影が落ちていた様に見えた。

そもそもジブリの話題において、基本的にネガティヴな発言は禁忌とされている。自称・ジブリ識者達は会話の中で、ネットなどで聞きかじったジブリトリビアを披露しようと躍起になる。なのでこのようなファンタジー要素が薄い実話的英雄譚には識者共の入り込む余地がないのだ。「アレはああいう意味、コレはこういう意味らしい」など言いようが無い、実に堂々とした気持ちのいい作品である。まごう事なき名作だ、ジブリというブランドであることを覗けば。

ただしこれは戦いである、相手が戸惑った瞬間を見逃すな、畳み掛けるにはこれだ。

 

世にも奇妙な物語「夜汽車の男」

 

風立ちぬと同じく、主人公自身の雄弁な語りとともに、自分自身との戦いを繰り広げる話だ。何故これを紹介するのか少々無理はあるが有無を言わせない大杉漣の演技に、堀越二郎を重ねてしまうことは必至である。見終わった後きっと、相手もあなたもジブリなどどうでもよくなり、食事へ向かう事になるだろう。

 

 

 もののけ姫

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最後は何にするか迷ったが、思い付かず面倒くさくなった。何でもいい。どれも同じだ。不毛な会話で得られるものなどたかが知れている。ナウシカを上げて漫画版でも読んでろとでも書こうかと思ったが、やめだ。もののけ姫だ。もののけ姫に食い付くような輩は昔、雑誌のSWITCHでジブリ特集を組んだ号に書かれているニッチな内容などを持ち出してくる可能性があるため危険度AAA+だ。個人的見解ではあるが、もののけ姫好きはアニメオタクが多い。そこで、対処法としてサンが自分自身を嗅ぎ「人間臭い」といったシーンがあるのだが、そこをフックにこの作品を突き出すのだ。ただし一歩でもタイミングを間違えれば、求めてもいないのに相手がショウジョウとかいう猿のモノマネをし始めるので、怒りに我を忘れ祟り神にならぬ様、気をつけなければならない。

 

岡村天斎監督「最臭兵器」 / MEMORIES

どうでもいいのだが、この作品を観た人間が山梨県民だった場合、異常なほどの食いつきを見せるらしいが山梨県民など知り合いに一人も居ないためそんな県の存在自体、都市伝説の類だろう。

これを見終わった後、きっと相手は「自分は臭いんじゃないか!?」と思い、早々にその場を立ち去るだろう。その瞬間、背後から一撃だ。

 

 

以上だ。

結局の話だが何にせよ映画や漫画など、作品を語れる相手がいるのはいい事である。僕もこのブログを誰かが読んだことで興味を持ってくれるかもしれないと期待しつつ、ジャンル問わずたくさんの作品紹介が出来ればいいと思っている。

 

 

 

 

SFで読み解く、映画『ラブライブ!The School Idol Movie』

ネットでもリアルでも迫害対象となっているラブライバーという輩が崇め敬う経典、『ラブライブ!』。

ここで"!"を入れ忘れ『ラブライブ』と記していた場合、それが広まるや否や、たちまち数の暴力によりこのエントリー自体が消え去ってしまうだろう。

それほどまでに訓練され、統制された人間たちが自らの人生の大半を捧げ続けるこの素晴らしいアニメ作品の劇場版が、昨年遂に公開された。

 

 

ラブライブ!The School Idol Movie』といった、理解し易い安直なタイトルだと思わせているつもりなのだろうが、よく見ると元々全て英語であるべきものをカタカナと英単語を混同させている。

 

ただ単に『ラブライブ!ザスクールアイドルムービー』だと格好が付かないだけだったのかもしれないが、僕が知るかぎり、ラブライバーの皆さんは一言もそんな事を疑問視している節は無かった。さすが何年も訓練され続けているだけはある。

 

なんにせよ観たいと思ってはいたのだけれど、公開してからしばらく忙しく、気付いた頃には既に劇場公開自体が終わってしまっていた。

公開当時を思い出してみるも、最近社会現象にもなった劇場版ガールズ&パンツァーの様な「ガルパンはいいぞw」等という語彙力が無い人間の共通言語みたいなものが産まれることも無く、Twitterでもちらほらと感想を見るくらいで、思ったほど盛り上がっていないな…といった印象であった。

もちろん僕の知らない所ではきっと、ファンは狂喜乱舞し、世紀の大波の如く、ラブライブ!が全世界を席巻するほどの一大ムーヴメントだったのだろう。

結局劇場で観ることは叶わず時は過ぎ、つい先日レンタルビデオ屋に置かれていることを知り、念願叶って遂に鑑賞する運びとなったのである。

 

*ここからネタバレになるかも

 

圧巻である。純然たるSF作品だった。

それも過去の偉大なるSF作品たちの系譜をしっかりと踏襲し、新時代のSFというものを見事提唱しているのだ。

2014年、インターステラーという映画が公開されたのだが、僕はラブライブ!を鑑賞後「これはインターステラーへのアンサームービーだ。」と瞬時に結論付けた。

あらすじなどは各自勝手に調べて欲しい。とにかく、あるきっかけにより世界線を超越し、恐らく未来の自分(過去の自分)であろう存在との邂逅、次元超越におけるプレーンワールドの可視化など、どれを取ってもラブライブインターステラーは同一のテーマを扱っている。インターステラーの最終幕に「主人公たちを助けようとしている者は、遥か未来の人類(自分たち)だった」、といった旨の展開がある。詳しくは伏せるがラブライブ!にもそのように捉えれる描写が存在した。

 

そしてラブライブ!には秋葉原の街中でぱっと見五億人くらいのアイドルが一斉に歌い踊る狂うといった狂気のライブシーンがあるのだが、よく見ると街中に通行人が一人もいない。異常事態だ。いくら何億人のアイドルが集まっているとはいえ、メインのμ′s達に街一つ貸し切れる権力などないはずだ。音楽やダンス、インサートでのモニター前の観客のような存在で巧みにカモフラージュしているのだが、現場には一切ファンが存在しない。ファンだけではない、在るべき通行人やこれだけの規模のイベントを管理する人間一人ですら見当たらないのだ。 

そう、まるで世界が停止しているかのようであった。

 

街そのものに息遣いがなく、「停止した世界」は同様にインターステラーでは「滅び行く死の街」として描かれている。つまりラブライブ!の世界も、終焉へと向かっているのだ。それは現実(三次元)でのμ’s解散というニュースに合致する。

多岐に渡るメディアミックスの末、その終わりをよもや劇場版の、最大の盛り上がりのシーンに描き出すとは恐れいった。

 

ちなみに「SF 秋葉原 無人」というワードからある作品が検出される。言わずと知れた近代SFアニメの金字塔、『STEINS;GATE(シュタインズゲート)』である。

この作品に登場する「静止した秋葉原」はあまりにも象徴的且つ、印象的だ。シュタインズゲートで描かれた様に退廃的な世界は如実にラブライブ!にも組み込まれていたように見受けられる。

 

ただ前提としてラブライブ!は元来SF作品ではないと、僕は思っていた。それが本当にそうなのか定かではないけれど、単純なアイドル・サクセス・ストーリーだと銘打っていたはずだ。何故、満を持した劇場版でSF要素を詰めこんだのだろう。もしかしたら、そもそも『ラブライブ!』は地球上の話ではないのかもしれない。人類だと思っていた彼女達は何か別の知的生命体なのだろうか。

ここまで書いてふと思い出したのだけれど、この作品には一人たりとも男のファンが登場しない。少なくとも父という存在は認識出来てはいるものの、作中に登場する男性は余りにも少ない。これはつまり、近い将来地球上から男性がいなくなってしまうという事を予見しているのかもしれない。事実、最新の研究結果で地球上からY染色体が消えてしまうといったニュースも話題となった。これを考えたとき僕は新井素子著『チグリスとユーフラテス』を思い出した。

チグリスとユーフラテス

チグリスとユーフラテス

 

あらすじは自分で調べろ!とにかくこの小説には生殖機能を失っていく人類たちが登場する。ラブライブ!に描かれる「ゆるやかな死」はこの作品へのオマージュであると受け取っていい。

 

まだまだ色々と考察すべき点はあるのだろうけれど、考えが追いつかないのもあり、僕自身SFに対しての造詣もそこまで深くはないのでここまでにしておこう。SFフリークの方々の見解も聞いてみたいものだ。

ラブライバーはこの映画の深淵に何を観たのだろうか。望むか望まぬか、もはや宇宙理論の知識が無くては語りきれない作品へと昇華された『ラブライブ!』、「ラブライブはいいぞw」などといった上辺だけの感想では、ラブライバーの望む「二次元に行きたい」などという次元上昇(下降)はきっと夢想に終わるであろう。

 

ラブライバーは今、試されている。あなたがラブライブ!を覗いている時、ラブライブ!もまた、こちらを覗いているのだ。

爆球連発!!スーパービーダマンにおけるカルト宗教的思想

 
かつてコロコロコミックにて連載され、ミニ四駆ハイパーヨーヨーに次ぐ三種の神器ならぬ三種の玩具として時代を築き上げた「スーパービーダマン」を題材にした作品である。
 
全15巻を読んだ今だからこそ読み解けた、この作品の描いている根幹が見えたので少し綴ってみよう。
この作品において、ビーダー(ビーダマンで遊ぶガキ)のスキルアップというのは全てビーダマンの改造という一点に集約されている。
これは少年漫画にあるまじき設定であると僕は思う。少年漫画の根幹である「友情・努力・勝利」の「努力」の部分が余りにも欠落しているのだ。これは由々しき事態であると共に少年漫画の在り方そのものへの挑戦とも受け取っていい。
百歩譲って「ビーダマンの改造」という行為を努力と置き換えることは許そう、よくある武器の改造に置けるパーツ集めや、武器そのものとの対話(ブリーチの卍解など)など、少年漫画では苦悩の末のパワーアップというのは定番の展開なのだから。
だがビーダマンに関してはその描写は一切存在しない。正しくは描かれてはいるのだが、それは全てサブキャラに対してのみであり何故かこの作品は主人公にあるべきその物語が存在しないのだ。何の苦悩もなく、自ら改造を行う訳でもなくビーダマン研究者や仲間達の助けによるビーダマンの強化によって世界を救う。
 
物語の終盤、仲間のガンマが主人公であるタマゴの事を「努力してきた天才」と揶揄するシーンがあるのだが、そもそも長きに渡る闘いの中でタマゴが努力してきた描写は一度たりとも描かれていない。
一巻当初、空き地でモブ共と遊んでいた時代から、そのポテンシャルは抜きん出ていたようで常日頃モブ共相手に勝利の美酒に酔いしれていた。そこに現れたガンマとの出会いによって世界の命運を賭けたバトルへとあれよあれよと参加していくのだ。
そんな戦闘狂(バトルマニア)のタマゴの友情、礼儀を重んじる思想に共感・感銘し仲間が増えていく中、タマゴは何も変わらない。自らの思想に対する疑問など1ミリもないのである。
「バトルがしたい」、というビーダマンのバトルに魅せられ狂ったかのように闘う中で発生したアクシデントに対して、タマゴは一貫した姿勢で向かい合う。
 
凄すぎる。ここまで悩みなどない少年が存在するのだろうか。
そう考えたとき、確かに、少なくとも僕自身がタマゴと同年代の時悩みなど存在しなかった。
宿題をしないといけない、親に怒られるかもしれない、といった今思えばどうでもいい悩みはあったのだろうが、もし仮に自分がタマゴと同じ状況になった場合、世界の危機と比べて宿題に対する不安などゴミのようなものだ。
そんなものに対して精神を削る必要もない、なぜならば世界を救えるのは自分しかいないのだから宿題などしている場合ではない。
だから下手な努力などしなくてよい、友情と礼儀さえしっかりと、一貫した姿勢で構えておけば周囲の人間が助けてくれるのだ。その心構えを貫くことを努力と捉える人間もいるであろう、だがタマゴは違う。無意識にそのような人間性が形成されているのだから。だからこそ出席日数などなんのその、後半は学校など行かずにビーダマンに没頭する生活を送っている。
まさに土方をしている叔父の教育の賜物だ。叔父のお陰で世界は救われたといっても過言ではないだろう。
つまりこの作品は親へのメッセージであると共に、少年たちに対して「下手な努力をする前に子どもは子どもなりに周りに頼れ、筋を通せばきっと物事は上手くいく。」といった、物事全てに感謝すべきというある種カルト宗教的思想に通ずる物語だったのである。
 
 
-追記-
だから何だという感じではあるが、決してこの作品をけなしている訳ではない。
捻くれずに読めば、どストレートな熱い展開に童心が蘇り、心踊るであろう。
kindle版は何故このタイミングなのかは謎だが異常に安い金額設定になっているので是非。全巻併せて300円もしません。